世界は去ってゆく友人だ。
過去の中にあって、見えるのは後ろ姿だけ。
言い争った経験や笑い合った思い出も無駄にはしたくない。
僕の心にあるのは昨日までの今。
世界は去ってゆく恋人だ。
彼女は僕を理解してくれなかった。
僕の心は痛んで、多少腹も立てている。
こうなることはわかっていたんだ、物心ついた時から。
誰も悪くなくて、だから辛いんだってことも。
それでもどこかで捨てられずにいる。
彼らが気付いてくれることを。
なんてことのない穏やかな明日を。
秘かな努力が報われることを。
僕にとっては一番難しくて一番欲しかったもの。
僕以外の人々が当たり前のように見ている何か。
退屈で無遠慮で不合理で。
やかましくて恐ろしくて下らなくて。
なのに向き合うしかない、今という煌めき。
俺はいわゆる、スカウトマンというやつだった。
街を歩く女の子に声をかけ、仕事を紹介させてもらう。
彼女達それぞれのスペックと、こちらの需要との折り合いをつけて。
ときに、無理矢理にでも折り合いをつけさせてもらうこともある。
もちろん手荒な真似はしない。
最初からそんなことをすれば、女の子は逃げて行くだけだ。
彼女達の相談に乗り、どこにも着地することのない悩み事を聞いたり。
場合によれば色恋を織り込みつつ、なんとか機嫌をとることもあった。
俺には変な才能があるようだ。
自分で言うのもなんだけど、見た目はそんなに良いわけでもない。
それでも女の子に好かれる要素は持っていると思う。
髪型や服装の見た目的なもの。
好印象な仕草や話し方。
そういったものを努力のすえ身につけてきた。
しかしまあ、それらは大したことじゃない。
大切なのはとにかく、彼女達の話を聞くことだった。
そうしてその子自身が、こちらに何を求めているかを見定める。
どうも俺はこの察知能力が、生まれつき高いらしい。
俺には彼女達が、『今ここでなんて言って欲しいのか』がわかるのだ。
これを努力で身に付けるのは難しいだろう。
俺は彼女達が好きだ。
好きだからこそ理解したい。この心意気が大切。
その日は、明け方まで女の子ふたりと飲んだ帰りだった。
ふたりのうちひとりは、俺が知り合いの店に紹介した子だ。
さんざ店の愚痴を聞かされ、気がつけば朝も営業している居酒屋で、7時過ぎまで酒を酌み交わしていた。
彼女達と別れたあと、腹が減ったので牛丼を食べた。
駅に向かう途中、ひとりの女の子が目に入る。
いいかげん疲れ、早く帰って眠りたいと思っていた俺を立ち止まらせるほど、彼女は良い商品だった。
顔もスタイルも良いのに加え、彼女は絶妙にダサかったのだ。
つやつやとした黒髪は胸の下辺りまで伸びていて、おそらく半年はカットしていないだろう。
オフホワイトのシャツワンピに、真っ赤なカーデ。
足元はくたびれたピンクのサンダルだった。
(髪とメイクを何とかすれば、Aランクの店も行けるな。)
彼女みたいな子は、俺にとっては1番欲しいタイプだった。
高級ブランドに身を包み、驚くほど男の扱いがたくみな女の子達よりも。
心をつかむことに成功すれば、どこまででも堕ちてくれる。
友達はほとんどいないだろう。
そんなこと辞めなよと、怒りながらでも制止してくれるような女友達なんて。
彼女の寂しさは海よりも深いはずたった。
俺が一歩その子に近づいたとき。
こちらの視界を遮るように、ひとりの若い男が立ちはだかる。
しきりに、彼女に話しかけ始めた。
(こんな朝っぱらからナンパかよ。)
出鼻をくじかれたことで多少苛つきながらも、その様子を少し離れた位置から観察することにした。
特に迷惑そうでもないが、彼女は男を全く相手にしていないように見える。
(この調子じゃ失敗だろ。
めんどくさい状態になってるだろうし、何てかまそうか… 。)
俺がそんなことを考えているとき。
突然だった。
その若い男の頬が、彼女のか細い右手で勢い良くビンタされたのは。
学校帰り、サークルの後輩とラーメンを食べた帰りだった。
最寄りの駅まで3分の繁華街の道を歩きながら、こないだの女の子のことを思い出す。
実はあれからもう一度、あの子を同じ場所で見かけた。
初めて見たときと同じように、目の前を通り過ぎる人々に笑いかけている姿を。
(あの辺りに立ってたんだよな。)
『あの辺り』に目をやると、そこにはホスト風の若い男が、キャッチの機会でもうかがっているような顔をして立っているのが見えるだけだった。
駅のホームで下りの電車を待ちながら、時間潰しにでもと、後輩に彼女の話をする。
「なにしてるのか気になって見てたんだけどさ。
周りで見かけないタイプだし。
… まあ、世の中いろんな人間がいるよなぁ。」
僕の言葉に、後輩はなぜか含み笑いをし「桐哉さん流石ですね。」と返した。
「は? どういうこと? 」
「いや、だって。
前の彼女と別れたって聞いてから3ヶ月は、そういう話桐哉さんから聞いてなかったんで… 。
桐哉さんならすぐ次が出来るだろうに、あれ?って内心思ってたんですよ。
さっそく、気になる女の子見つけたんすね。」
僕は先程より大きめの、「は? 」を後輩に返してやった。
「ちゃんと聞いてたん?
道端に立って、見ず知らずの人間に笑いかけてる女だよ。
そういう意味の気になるじゃないから。
あとさ。
別れたからハイ次って言うの、俺は無理なんだよ。
まだそんなん早いわ。」
後輩は、ふーんという表情をしながら言う。
「それって別に悪いことでもなくないですか。
怒ったり睨んだりしてる訳じゃないし。
笑顔を向けてくれるなんて、むしろイイコじゃないですか。 」
「… 悪いとは言ってないけどさ。
あれは関わっちゃいけないタイプだよ。
めんどくさいレベル越えてるね、完全に。」
この話はここまでという合図に、僕は腕時計を確認する。
あと2分程で電車が来る。
「でも、可愛かったんですよね? 」
ニヤつきながらの後輩の質問に、僕は答えなかった。
まったく。
こいつは変に察しがいいんだよな。
可愛いかったよ、たしかに。
「いいも悪いも、気になるならとりあえず声かけてみたらどうですか?
意外にマトモかもしれないですよ。」
後輩がそう締めくくった所で、ホームに電車が到着する。
込み合っているその車輌に乗り込むと、二人とも黙ったままつり革をつかんだ。
なんだってこいつが、強めにあの子を推すのかわからないが。
たぶん面白がってるだけだろう。
人から聞く変わった人間の話は、想像が含まれるぶん、実際に会うよりも好奇心を刺激される気がする。
… だけどまあ、そんなに言うなら。
偶然に見かけることがあれば、声くらいかけてもいいかもしれない。
僕があの女の子と次に会えたのは、後輩の言葉にまんまとその気になったこの夜から、1カ月後だったけれど。
地元の駅に着いた。
南月はボストンバッグを片手に、バス乗り場まで歩く。
電車に揺られたあと、また三十分はバスに揺られるのだ。
バスの窓から見える見慣れた風景をぼんやりと眺め、自分の心が落ち着かなくなっていくのを南月は感じる。
バスから降りたと同時に、強い風が南月の短い髪を乱した。
潮風といえば聞こえがいいが、なんとなく魚の匂いのする海辺の空気。
帰ってきた、と南月は思う。
木造の古い一軒家の戸を、ガラガラと音をたてて開けた。
南月の家は鍵なんてかけない。
近所の住人がみな顔見知りだからといって、この辺りでも最近は鍵をかける家も多いのだ。
それは、南月の父親の性格から来ていると思う。
南月の父親は正直で実直だった。
鍵をかけないことで、見られて困るものなんてないと言いたいのかもしれない。
変な理屈だけど、大きくはハズレてないと思う。
(そうは言っても…。)
南月は玄関から畳の居間に入り、カバンを置いて一息つく。
(盗まれるようなものなんて、何もないもんね。)
父がこの家で大事にしているものといえば、古い仏壇くらいだ、きっと。
居間のちゃぶ台に座って、しばらくぼんやりとする。
畳にじかに置かれたお盆には、電気ポットとお茶っぱの缶、伏せた湯飲みがひとまとめに置かれている。
急須に残っていた葉で、薄い緑茶をいれて南月は飲む。
お茶をすすりながら、テレビ台の下の分厚いアルバムが目に入った。
あの中には、南月が長い間忘れようとして、でもどうしても忘れることの出来ない人間が収まっている。
だけど最近になって考えるのだ。
私は本当に、あの人を忘れたいのだろうか。
あの頃の私は父に遠慮し、そうするべきだと決めたのかもしれない。
自分の母親を、キレイサッパリと忘れられる人間なんてこの世にいるのかな。
もちろん父がそんなことを強要した訳でもない。
だからこそ、いつでも手に取れるこんなテレビ台の下に、家族写真のアルバムを置いてあるのだ。
いかにも無造作に、いつでも思い出を見返せるように。
なのに母の顔を見たいと思うことは、父への裏切りのような気がしていた。
南月はそっと、手を伸ばしてみる。
アルバムに触れたあたりで、ガラガラッと勢いのいい引き戸の音がした。
サッと手を引っ込めた。
「帰ってきたか。」
父はいつもの困ったように見える笑顔で、そこに立っていた。
バーの店長は、大きな旅館の長男なのだった。
しかし彼がそこを継ぐことはなく、弟である次男が経営することになっている。
それは南月にもわかった。
店長がそんな世界と、相入れないだろうということは。
店を出すときは父親がお金を出してくれたし、その後も度々助けてくれていたらしい。
でなければ、店長のやり方でバーが存続出来るはずはなかった。
ある日、店長は父親と大きな喧嘩をした。
ふたりの間の喧嘩は昔から繰り返されていたみたいだけど、今回は店の資金もストップされてしまったのだった。
「ナツキちゃん、ごめん…。
しばらくはお店開けられないかもしれない。」
電話口の店長の言葉を聞いて、南月はうなづくしかなかった。
本当は先月分の給料も未払いのままだ。
たぶんそれも期待できないだろうなぁ、と思いながら。
電話を切った後、さて… と考える。
南月は先週、どうしても欲しかった画材を買ってしまったばかりだった。
自分の計画性のなさを悔やんでも、今さらどうしようもない。
それにこの事がわかっていたとしても、自分は欲しいものを手に入れていたはずだとも思う。
私にはそういうところがあるんだ、と。
家賃の心配はないけれど、食費をまかなえる程の金額は今はない。
家にはお米が少しと、冷蔵庫の中に卵のパックとりんごがひとつ転がっているだけだった。
「しょうがない…。」
南月はいっとき地元に戻ることにした。
南月の住む町から父の住む田舎までは、電車を乗りついで約二時間の距離で、電車賃もなんとか足りるだろう。
「あーあ、地元かぁ。」
南月はため息と共につぶやいてから、予定のなくなった午後を、キャンバスの前で過ごすことにした。
朝のラッシュが一段落したあと、私は姉と住むアパートに向かう。
駅から15分は歩くそのアパートに、姉の姿はない。
それはでも、わかってること。
8時にここを出なければ、お姉ちゃんは仕事に間に合わないはずだから。
それをわかっていて、私は9時過ぎにうちに戻るのだ。
キッチンには、朝食で使ったらしいお皿とマグカップ。
折り畳み式の小さなテーブルには、目玉焼きとウインナーが乗ったお皿がラップをかけて置かれていた。
食パンとマーガリンの横に。
マーガリンを冷蔵庫にしまうついで、私は牛乳パックを取り出してコップにそそぐ。
ラップをペリペリとはがし、ウインナーにフォークを突き刺した。
小さくかじりとる。
パンは食べない。
本当は目玉焼きもウインナーも食べたくはなかった。
けれど作ってもらったものは食べないといけない気がする。
誰かの行為を無にすることは、なるべくしたくないから。
食べ終わると、お姉ちゃんのお皿とマグカップも一緒にキッチンで洗った。
ひとしごと終えたような気分になって、ふぅーと息を吐く。
スマートフォンの音楽を聴きながら、着ているカーディガンとワンピースを脱いでいく。
タンクトップとショーツだけになって、音楽に合わせて踊ってみる。
なんだか楽しい気持ちになって、リズムにのって踊りながらワンピースをハンガーにかけた。
お姉ちゃんが借りている1LDKのアパートの、リビングのソファーとその横の小さなハンガーラックだけが、私が好きに使えるスペース。
私の巣みたいな場所。
ハンガーラックにかけられた服は、赤いカーディガンと冬用のダッフルコート、ワンピースが4着だけ。
他に私が持っている服といえば、着古したティシャツとスウェットくらいだった。
子供の頃。
ピアノの発表会や友だちのお誕生日会、家族でちょっと高級なお店に行くとき。
そういう晴れの日は、いつもお母さんにワンピースを着させてもらった。
洋服のなかでワンピースだけは、姉のお古じゃなかった。
あの頃の姉は、ひらひらしたスカートが好きじゃなかったから。
私のためだけに、母が選んで買ってくれたワンピース。
茶色のチェック柄だったり、白い布地に花の刺繍が舞っていたり、ブルーの水玉模様だったりした。
そこに付いた小さなボタンの色形まで、今でもはっきりと思い出すことが出来る。
ワンピースを着ることで、その日が特別になるような気がした。
大人になった私は毎日を特別にしたくて。
だから今日もワンピースを着る。
「園子(そのこ)。
あなたが生きているだけで、お姉ちゃんは嬉しいんだよ。
だからもう何も言わない。
でも、お薬だけはちゃんと飲んでね 、お願い。」
いつの日かの、お姉ちゃんの言葉が耳元で聞こえる気がした。
お姉ちゃんはとても疲れた顔をしていて、私はとても悲しくなって… 。
もう心配はかけたくないと、心のなかで私は誓った。
だけどそれとは裏腹に、姉を避けるような生活が始まる。
姉が仕事から帰る19時過ぎには、ソファーでぐっすりと眠っていた。
深夜に起きる私は明け方には出掛け、姉が仕事に行くまで人混みで過ごすのだ。
知らない人々の、視線をもとめて。
南月(ナツキ)は、キャンバスに向かっていた。
数日間ろくに寝てないし、食べてもいない。
それでも描かずにはいられなかった。
キャンバスに描かれているのは女性の肖像画で、赤をバックに半裸姿で横たわっていた。
彼女は何かを訴えるような目付きで、こちらを見ている。
彼女がこちらに何をわからせたいのかは、不明だった。
いつだって。
南月は肖像画の彼女に聞きたくなる。
教えて。
それはなんだったの?
南月は、東京の美大を出たあと父に頼み、ここに残らせてもらった。
就職はせずバイト生活をしながら絵を描いている。
家賃は3年間だけ、父が出してくれることになっていた。
つまり、それまでになんとかならなければ、なにかしらの仕事を見つけるか、家に帰って来いってことだ。
家賃は出してもらえるにしても、光熱費や食費、携帯代
そして画材のお金を捻出するため(画材は決して安くなかった)南月は働く必要があった。
バイトといっても、南月に合う仕事は限られている。
接客業はまったく出来ない訳でもないけど、人と深く接するものは向かない。
コンビニや受付、短期間のコンパニオン的なもの。
怪しい撮影会のモデル、なんていうのもやったりした。
それから小さなバーの店員は、南月にも長く勤めることの出来ている仕事のひとつだった。
バーの店長は、見た目も中身も変わっていた。
南月は美大在学中、変わった人々を見てきたつもりだった。
だけど店長ほどの人はいなかった気がする。
店長の体には、彼が今まで飼ってきたペットすべてが刺青として彫られていた。
チワワとハムスター、それからヘビとトカゲと。
ベジタリアンだけど、健康志向というわけでもない。
お酒はたくさん飲むし、スナック菓子やカップメンなどもよく食べている。
しかし乳製品はとらない。
店長いわく体に良くないらしい。
民俗楽器が好きで店にはそれらが所狭しと並べられていた。
変わった人と付き合うことは得意だ。
彼らにはこだわりがある。
そのペースを崩さなかったり、下手に心配して面倒を見ようとしなかったり、バカにしなければ、大体のところ、彼らは好い人だった。
あるいは南月だって、変わった人々の一員なのかもしれない。
あれは何時頃だったか。
その日、店はガラガラに空いていた。
強い雨の降る夜で、私と店長はお互いに「今日はダメだ」という諦めの気持ちが顔に出ていた。
そのとき、店に2人の男女が入って来る。
初めて見た顔だった。
2人はカウンターの真ん中辺りに座った。
男性の方は背は低めだ。
しかし、それを感じさせない威圧感みたいなものがあった。
年齢は40代半ばに見える。
女性の方はスラッと背が高く、長い黒髪だった。
年齢は30代の始めか、ちょっとわからない。
服装はコンサバティブで、でも着こなしは様になっている。
もしかしたらモデルの様な仕事かもしれないと南月は思う。
店長は何も言わなかったけれど、南月にはわかる。
(なぜ、こんな人種がうちの店に?)
きっとそう思っているし、南月も思っていた。
しかしそんなことは顔に出さずに、注文された酒を、それぞれの前に差し出す。
2人ともしばらく黙ったまま、グラスに口を付けていた。
店長がカウンターを離れたとき、女性客の方が南月に話しかけた。
「いいお店ね。」
南月は、「ありがとうございます」と返す。
彼女は静かに微笑んで言う。
「あなたは、ここで働いて長いの?」
「2年くらい… 、ですかね。」
南月が答えると、彼女は自分の小さなバッグを探り、何かをカウンターに置いた。
それは名刺で、彼女の名前と携帯電話の番号が書かれている。
「もし良かったらだけど、私たち人を探しているの。
人によっては簡単なことかもしれないし、でもそうじゃない人にとっては、とても無理なことかもしれない。」
彼女は南月の目を見ながら、ゆっくり話した。
南月は彼女の言いたいことがうまく掴めず、曖昧にうなづく。
「私たちだって誰でもいい訳じゃない。
でも私も夫も、あなたの事をとても気に入ったの。
だから…。」
彼女は、名刺を指差しながら言った。
「もしその気があったら、ここに電話してくれる?」
それから彼女は、完璧に対称的な笑顔を向ける。
「ごめんなさいね急に。
お仕事の邪魔をしてしまって。」
南月は、「…いえ。」とだけ返すと、一応名刺を受け取る。
突き返すのは失礼だと思った。
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僕が彼女に気付いたのは、コーヒーショップの二階から見える後景があまりにつまらなかったから。
窓から見える黒っぽい(又はグレーっぽい)集団が行来する通りに、彼女はひとりで立っていた。
彼女が目立っていたのはまずその服装だ。
11月も半ばに入り、ある程度肌寒さを感じる朝。
彼女はペラペラのワンピースに、七分丈のこれまた薄手のカーディガンを羽織っているだけなのだ。
太っているならわかるが、彼女は折れそうに細い体つきで見ている方が震えてくる。
ワンピースは淡いブルーと黄色の花柄で、カーディガンは真赤。
その色合わせは、およそ趣味がいいとは言えない。
おまけに肩に下げた小さなバッグは、大人が持つには子供っぽすぎるキャラクター物だった。
しかし。
彼女は人目を引くほどに可愛かった。
コーヒーショップ二階の窓越しからでも、それはわかるのだ。
じゃなきゃ、彼女の挙動が少しおかしいからといって目に止まらなかっただろう。
彼女は一応歩行者の邪魔にならないよう配慮しているようだった。
通りの隅にチョコンと立ち、行き交う人々を目で追っている。
そしてときどき、首を傾げて小さく笑う。
知り合いを見付けたとかそんなのでも無さそうだ。
僕は俄然興味が出できた。
彼女は何をしているのか。
何者なのか。
ティッシュ配りのアルバイトでもないし、何かの勧誘をしている様子もない。
誰かとの待ち合わせなら、なぜ見知らぬ人々に笑いかける必要がある?
… ああ。
もしかしてエッチな職業で、通りに立って客を品定めしているのか。
こんな朝から?
そんな子にも見えないけどな。
携帯で時間を確認する。
8時25分。
そろそろ出ないと一限目の授業に間に合いそうもない。
名残惜しいような気持ちを胸に、僕はコーヒーショップの席を立つ。
日々のなかで、私が唯一していること。
なるべくヒトケの多い通りに立ち、そこで人々に微笑むことだ。
朝の通勤時間帯、少しずつ歩行者が少なくなっていって
お昼が近づくとまたランチ目当ての人々が通りを行き交い始める。
私は無理に彼らと目を合わせることはしない。
自然と引き寄せられるように、私と彼らの視線がハマるのだ。
パズルのピースがハマるみたいに。
私はその瞬間がとても好き。
意図しないようでいて。
でも確実にそこに意思がなければ、見知らぬ人間と見詰め合う瞬間なんて訪れないと思うから。
勘違いしないで欲しいのは、別に男性の視線を求めているわけじゃないと言うこと。
学校に向かう女の子。
綺麗にお化粧をしている会社員のお姉さん。
年配の女性たち。
彼女たちと視線を合わせることも多い。
ただ割合として、男性の確率が少し高いだけ。
私の存在を確認してくれる確率。
私がここにいることを、彼ら彼女らは教えてくれるのだ。
じゃなきゃ、私はどうやって自分の存在を確かめればいいのかわからない。
目を合わせたあとに微笑むのは、感謝の気持ちを伝えたいから。
私に、私の存在を知らせてくれたことへのお礼のつもり。
『ありがとう。私はここにいるんだね。』
笑いかけたあとの反応はそれぞれだった。
驚いた顔をして去っていく中年サラリーマン。
怖がってるような、不気味なものでも見る顔をした小さな男の子。
無表情のOL。
微笑み返してくれた小学生の女の子。
冷笑を浮かべる女子高生。
『おはよう』と律儀に挨拶をする初老の男性。
朝の通勤時間帯を選ぶのは話しかけられることが少ないからだ。
みんな忙しくて、私みたいな女を黙殺してくれる。
それでも時折、話しかけて来る人がいた。
朝まで飲んでいた風の若い男がしきりに問いかけてきたけど、私には、彼が何を言っているのかわからない。
それからはもう視線を合わすことはしなかった。
言葉も返さない。
何度かのため息をついたあと、若い男はいつの間にかその場からいなくなっていた。
せっかく声をかけてくれたのに申し訳ないと思ったけれど。
私の目的は話すことじゃなく、一瞬でも視線を合わせて欲しいだけなのだ。
ただ、それだけ。
ストレスがまったくない状態は、逆に人の精神をおかしくすると言う。
ストレスは良いも悪いも、適度に必要なものらしいのだ。
本当だろうか。
俺は、だだっ広い運動場の真ん中につっ立っていた。
夜が明けるまで数分の、静かで薄暗い運動場。
俺は今日もここを走る。
毎日決まった時間、決まった距離を走り終えなければならないのだから。
軽い準備運動として、手首と足首をクルクルと回してほぐす。
最後に首筋をゆっくりと、仕上げをするみたいに回した。
辺りがだんだんと明るくなってきた。
それに連れ、いつのまにかその場にいた奴らの姿が浮き彫りになる。
10メートル程先に、いつものストレスが立っていた。
彼はどこかぼんやりとした表情をして空を眺めている。
いつも会う奴だからそれほどのことはない。
顔を見ればホッとするくらいだ。
左ななめ前からは、まあまあのストレスが歩いて来るのが見えた。
こちらの方向にひたすら真っ直ぐに。
避けようのないストレスだ。
彼の隙のない歩き方を見ればそれは歴然としていた。
そうかと思えば、右ななめ後ろから来たストレスがくるりときびすを返して去っていくのがわかった。
さようなら。またいつの日か…。
ふと足元に目をやる。
そこに小さなストレスが座っていた。
体育座りの姿勢で、顔を膝小僧にくっつけてピタリと動かない。
俺は思わず、『大丈夫か? 』と聞きたくなったがグッと我慢する。
これも乗り越えなければならないストレスのひとつなのだ。
俺はその場で数回ジャンプする。
運動場の地面を、力強く跳び跳ねる。
土ぼこりが風にまった。
自分を鼓舞する為だった。
スタートする直前、100メートル先に見たことのない人影があるのを発見する。
彼女は満面の笑みで親しげに手を振っていて、俺も思わず振り返しそうになる。
これは直感だけど、彼女はなかなかに手強いはずだ。
『人生はゲームのようなもの』という側面に立てば
誰もがみな、ひとりのプレイヤーに過ぎない。
それでも勝つのは気持ち良いし、楽しむ価値もある。
コミュニケーションのツールとしても機能してる。
けれど勝ち続けたところで、本物の支配者にはなれない気もする。
プレイヤーがどんなところで興奮したり苦戦したりするのか
なにをもって勝ち負けとするのかは、クリエイターのさじ加減ひとつなのだ。
だったら、自分だけのゲームを作って楽しむ方が得策じゃないか。
そこになるべく多くの人間を引き込めば、自分がなにもかもを決定する王様になれる。
そうして支配者は、今日もどこかでプレイヤーを操っている。。のかしら。
私は悩んでいた。
それは日常のささいなことかもしれない。
けれども、私にとっては大切なことなのだ。
最適な枕が見つからない。
朝になって目覚めたとき、何度か首の筋を違えた経験が、私を『最適な枕を探す旅』へといざなう。
いつしか私は、物事が上手く行かないことの半分を枕のせいにしていた。
グッスリと気持ちの良い睡眠がとれないことが、日常の不具合に繋がるのだと。
それがただの言い訳に過ぎないことはわかってるんだけど、『良い枕が見つかれば私の人生も上手く行く』。
なんて幻想に、その頃の私はとりつかれていたのだ。
それにしても、なんてたくさんの種類があることか。
枕ひとつとっても、作る側買う側の探究心てすごいと思わざるを得ない。
それからの私は良さげな枕を見つけては買い込み、結局思い通りの眠りを提供してくれなかったことに失望する、なんてことを繰り返していた。
素晴らしい眠りをくれる枕なんて現れやしないのだ。
人生を反転させてくれる、魔法の枕なんてものは… 。
いま私のベッドに鎮座する枕は、別に『コレだ』って決めたものじゃない。
なのに愛用しはじめて3年近くが経つ。
この枕の意味するところが、気づけば隣にいた恋人のことだって理解してくれたらありがたい。
恋愛は、突然にふって沸く幸運だと思っていた。
やりきれない日常のなかに舞い込んでくる、特別な出来事だって。
だけどそうじゃない。
カレと初めてした喧嘩で私は確信した。
ずっと抑えていた私の怒り。
溜め込んでしまう習性のせいか、それが爆発したときの衝撃は、男の人を唖然とさせるみたいだ。
それで何度か、恋人から見切りをつけられて来たんだから。
そんな私を(かろうじてでも)受け止めてくれる男なんて、カレ以外にはいないのかもしれない。
自分でも目を背けたくなるような、感情に支配されたきつい言葉の羅列を、優しく頷きながら聞いてくれだなんて、望むだけ図々しいことだと思うから。
『コレだ』と決めた覚えはなくても
いつの間にかそこにいて、私を落ち着かせてくれる人。
もちろんすべてが理想通りってことはないけれど。
私にはじゅうぶんすぎる人。
理想のカタチをした枕は、この世のどこかにあるのかもしれないし、ないのかもしれない。
本当は少しだけ、探し続けたい気持ちも残っているけれど… 。
そんな風に思っていること、カレの前ではおくびにも出さない。
キミと初めて会ったとき。
お祭りの屋台で見た、飴細工の小鳥が目に浮かんだ。
柔らかな白いかたまりが、おじさんの手で小鳥のかたちになっていく。
幼い僕は、魔法にでもかかったみたいに夢中でそれを見ていた。
僕が驚いたのは、このガラス細工のような美しい小鳥は口に入れれば甘く溶けていくということなんだ。
まるで宝物のように、大切に持ち帰った。
昨夜、キミと初めての大喧嘩をした。
今日になって、幼い頃の父と母の喧嘩が僕の頭に浮かぶ。
父と母が、どうしてそう仲が悪くなったり良くなったりを繰り返すのか。
こちらを不安にしといて、次の日にはふたりして笑ってることに多少腹も立てていた。
でも今ならわかる気がする。
キミの心の雲行きがなんとなく怪しくなって、気付いたときにはもう僕は出遅れてる。
ハッキリとした理由なんて正直わかってやしない。
たとえキミから、捲し立てられるように説明されていたとしても。
ただ僕はキミを失いたくないから、自分の過ちを認めざるを得ない。
そういうことなんだ。
恋愛感情は、思春期以降の成長によるものだと思っていた。
性的欲求と自立心と共にめばえた、孤独の上に成り立つもの。
子供の頃に感じた純粋な驚きや喜びとは、無関係であると。
でもそうじゃない。
キミといると交差するんだ。
大人の僕と子供の僕がごちゃまぜになる。
キミのそばでは時々、僕はどうしようもなく子供に戻ってしまう。
こんな僕が、これからもキミに迷惑をかけたり、意味がわからないと怒られたり、傷付けてしまうような出来事が起こらないとも限らなくて 。
先にごめんと謝って置くなんて、やっぱりズルいことなのかな。
深夜に目が覚めて、ミズキはベッドの波の上でしばらく動けなかった。
さっきまで見ていた夢の続きは、今すぐにでも目を閉じれば見られるはずだ。
しかしとてもじゃないけどそんなことは受け入れられない。
無理矢理にでも、温かなベッドからベリベリと体をはがした。
ベッドから立ち上がって、たった3歩でたどり着ける古いダイニングテーブルのイスに腰を下ろす。
それでもまだ、夢の続きが追いかけてくるような感覚があった。
こんなときは逃げるしかない。
どんな手を使っても。
夢は起きた直後ならその跡先を簡単に追えるのに、しばらくたって一 どんなことでもいい、現実に起こっていることにいったん注目してしまえれば、不思議なくらいにどこか遠くの方へと、かすかなざわめきを残したまま去っていくのだ。
テレビでもあれば気が紛れるのかもしれないと思った。
テレビについては、1年前に友人にただ同然でゆずってしまった。
(友人と呼べるほどの間柄でもなかったけれど、だからといってわざわざ知り合いと言い直すのも、友人という言葉にこだわりすぎているような気がする。)
平日の深夜に放送されている番組と言えば、ほとんどがテレビショッピングだった。
今は違うのかもしれないけれど、ミズキがテレビというものをわりあいよく観ていた5年前は、確かそうだった。
他の番組では見たこともないテレビタレント達の、商品の値段を聞いた後の大げさに驚くような声が、なんとなく懐かしく思えた。
たとえそれが心からの感情じゃないにしろ、誰かが笑ったり喜んだり、または怒ったり、なんらかのリアクションをしている姿を画面越しに観れば、自分のこの、意味もなく不安定な心持ちもいくぶん落ち着くような気がしたのだ。
知らない方が幸せなことをかき集めたら、立派なおうちが建ちました。
今噛みしめている幸せを丸め、お団子にしました。
未知の幸せをうたう、小鳥たちの歌を聞きながら。
知ってしまった不幸せをついばみながら、小鳥たちは生きているのです。
いつも午後の時間はそうするように、おうちの縁側によっこいしょと座りました。
一生気づかないであろう幸せと不幸せを足もとで転がしながら、お団子を食べ、庭先の小鳥たちを眺めるのが好きなのです。